医療コラム

人生の最期を考える その2

町広報「まつまえ」20年3月号掲載

春です! まだ寒い日も少しはありますが、日に日に暖かくなってきていますね。私は「冬眠」から目覚め、日々の運動を再開しました!

先月から人生の最期について書いています。
親兄弟や親戚、配偶者、友人にはいつまでも長生きしてほしいもんですよね。でも悲しいかな、いつの日か別れの日がやってきます。
人間、年老いると しまいに食べられなくなる人がたくさんいます。
理由は幾つかあります。
ア)物を飲み込む仕組みがうまくいかなくなり、むせるようになる
イ)寿命が近づき、身体が食べることを自然に求めなくなる
ウ)認知症が進んで食べられなくなる
エ)癌(がん)で食べられなくなる、 などなど。

医療ではここ30年から40年のあいだに、食べられない人に対して管で栄養を流し込んだり、水分や塩分を点滴したりできるようになりました。これはすばらしい進歩です(でした)。特に若くて元気だけれど食べられない人や、怪我で食べられなくなった人、病気で一時的に食べられなくなった人にとってはネ。でも、年老いて食べられなくなった場合や、終わりの見えない病気、あるいは治る見込みのないつらい病気の場合はどうでしょう・・・・。ここがわれわれ医師や患者様、そして御家族の悩みの始まりです。
50年ほど前はこのような治療はおそらくありませんでした。

人が食べられなくなると、横丁の藪井(やぶい)先生を呼んできて(落語みたいですナ)、

家族「先生、いかがでしょうか?」
藪井「うーむ、残念ながらあと一週間ですな」
家族「(がっかり) そうですか・・・」

という会話があり、親戚の方を呼んだのでしょう。そして皆に見守られながらおうちで人生を終えたのです。ところが現代は異なります。いよいよ食べられなくなるとほとんどの方は病院に入院し、点滴や経管栄養が登場します。昔のような自然な「死」はわが国ではほとんどなくなりました。(別にそれが悪いといっているのではありませんヨ)

医療の目標は大きく二つあります。一つは「楽であることや苦しさが少なくなること」、いま一つは「長生き」です。病気に対する治療がこの二つの目標を同時に満たすのでしたらいいのですが、現代の医療では必ずしもそうは行かなくなってきました。寝たきりで動けないけど長生き。頭が全然働かず、誰が見舞いに来たかもわからないけど長生き。あるいは頭ははっきりしているが手足も口も自由にならずストレスがたまっているけど長生き。このようなつらい思いをされている(のではないかとこちらが思う)方々に対してどこまで何を行なうのが「正しい」のかあるいは「よい」のかは誰も答えを知りません。なぜなら皆、価値観が違うからです。加えて、社会全体もどこまでを倫理的にあるいは国家経済的に是とするかを決めかねているからです。ことがことなだけに、わが国では議論することすらタブー視されているかのように見えます。「メタボ」とかはすぐ皆ぎゃんぎゃん騒ぐんですがね。でも、いよいよわれわれ一人一人がこの問題を直視し、考えなければならない時期になってきたのです。
二回では終わりませんでした(重いねー)。
この続きはまた次回。

院長 木村 眞司
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